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公文 松山横河原教室
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寒く冷たい2月の朝。霜柱がきらきら光る朝、吐く息が湯気のようにみえる。散歩を小躍りして待つ我が家の飼い犬が、朝、小屋から出てこない。不審に思って小屋の中を覗いてみると、五匹の子犬が全身を震わせながら必死でおっぱいを飲んでいる。「ギャー、なんじゃ。うようよ赤ちゃんがおるー。」私は叫びながら家の中に入り、三人の娘(5歳、8歳、10歳)に知らせると、「かわいいー。ひゃー。かわいいー。すごー。」三人が繰り返す感嘆語。他になんか言い様があるだろ、と思うのだが、適当な言葉が見つからず、思わず、「いや―ん、かわいいなあ。」と、言う私。

一週間が過ぎた頃から、娘達は歩けない子犬を散歩に連れ出す。長女が二匹、次女が二匹、三女が1匹、パーカーの懐に入れて散歩と称している。次女なんて、歩くの大嫌いな肥満気味の子だったのに、嬉々として、散歩をするようになった。喜び、走って学校から帰ってくる娘たち。日に日に愛くるしくなるよちよち歩きの子犬達。娘達が名前をつけて子犬とじゃれ合っているのを見るにつけ、私の気持ちは暗く落ち込んでいく。6匹の犬なんて飼えない。もらい手探さないと。しかし、雑種。父親は、ここ一月近所を流していた野良犬。ずんぐりむっくり。顔はでかく、上下につぶれている。足短い。胴長い。毛並みは、艶のない赤毛。母犬の背丈の半分。子犬のうちに・・・父の遺伝子がまだあらわれない、文句なし小さいから、かわいいうちに・・・もらい手を探さなければ・・・焦り出す私。

娘の保育園に張り紙をさせてもらったり、公文の事務局だよりに掲載してもらったり、手当たり次第会った人に声をかける。娘達には、学校、保育園で、友達に声を掛けるように言い渡し、クラス全体に言うな、一人づつ十分な説明をして子犬を飼いたくなるような子犬のいる生活の楽しさを伝えなさい、とまで厳命して。これぐらい、必死になれば、どんな商売だって成功するわ、って自分でも感心するぐらいの、なりふり構わぬふり。甲斐あって四匹は貰われていった。残ったのは、父親の遺伝子がストレートに出た情けない四肢と顔をもった寛と名付けた雌犬。甥っ子が生まれてきたときの顔とそっくりだったので、その子の名前を採って、寛と名付けた。余談ですが、人間の寛は、現在18歳で小顔の身長180センチのモデルのような男の子に成長している。

愛嬌はあるが、ここまで不細工なら、寛は貰い手が無かろうと、早々に判断して家に残すことにした。犬二匹の世話はなかなか大変で、朝晩の散歩、えさやり、しつけ、いずれも毎日毎日終わりのない作業。どんなに楽しく遊んでいても、お買い物してても、適当な時間には帰らなければならない。家族で夜外食なんてこともない。自分たちが夕飯を食べる前に必ず、犬の世話を終えてなければならなかったから。平日うちの娘達は友達と遊ぶことはほとんどなかった。帰宅後、洗濯の取り込み、犬の散歩、公文のプリントを終えていなければ、帰宅後私の怒りに触れるから。

寛が一歳になるころ母犬は急死した。庭の柿の木の根元に遺体を埋めたものだから、寛は毎日毎日そこに母のにおいを嗅ぎに行ってた。嗅ぎながらク-ンク―ンと鳴くのを見て、私は人や物のにおいに記憶をもつようになった。一匹になった寛に寂しさを感じさせないように娘達は、懸命に世話をした。娘達は面倒くさいと感じながらも口の付いている生き物ゆえに、いいや、愛情を体で示す動物ゆえに、世話を怠ることが出来なかったのだと思う。

13年老犬になった寛は、自宅の周りを自由気ままに徘徊する、首輪をつけた野良犬状態になった。日中は、自宅で療養している私の母のベットがみえるデッキで過ごし、母を慰め、不審者が来ると玄関に回って吠え、縁台で酔っぱらった父の話し相手になっている。誰かが帰宅すると、犬小屋の前で座って待つ。車から降りてくるのを見計らって、ひっくり返って腹を見せ、早く撫でろと催促する。寒い夜中なんて、一刻も早く家に入りたいんだけれど、せがまれて仕方なく、おざなりに片手で、さっと腹をなぜると、寛の体温が伝わってきて、思わず両手でぬくもりをもらう。

フィラリアを発症して体が不自由になって、デッキにも上がってこれなくなり、自宅のリビングで寝たきりの状態になって一週間。体には水がたまってゆき、思うように動かなくなった。目で家族を追う24時間。家族で決めた目標は一人(一匹か?)で逝かせないというもの。昼間仕事で寛を見ることのない長女が夜一緒に寝て、昼間は私か三女が。母を一人で逝かせた轍は踏まないと誓って、私たち家族は介護したんだ。

昨日、三女と夫に看取られて亡くなった。昨夜自宅で通夜をして、母犬の眠る柿の木と並ぶもう一本の柿の木の下に今朝埋めた。

私が子どもを育てるときに最も注意したことは、規則正しい生活と学習習慣だ。学習習慣はKUMONのおかげでついたと思う。規則正しい生活は寛がいなかったら自堕落な母親である私一人では、出来なかったと思う。母を早くに亡くした(犬なら当たり前だけど)寂しがりやで、愛情をストレートに求める寛の存在が本当に大きかった。母の自宅療養を支え、娘達の成長を支えてくれた。寛ちゃんありがとうね。


横河原教室は、伊予鉄電車の最終横河原駅前商店街にあります。この商店街を抜けると、旧11号の国道にぶつかり水天宮の神社、重信の河川敷まで2,3分です。この河川敷から見える、雪で真白に輝いている雄大な石鎚連峰と 河川敷に霞の雲のようにつながっている桜の花と 空の青さのコントラストは本当に美しい。生きる勇気、生きて物を見る価値のようなものを教えてくれる素敵な景色です。写真を撮ることが出来たら是非紹介したいと考えています。

しかし、この横河原。冬は嫌になるぐらい寒い。冷たい。石鎚の吹き下ろしの風が身を縮ませます。松山市内と最低3度は気温が違う。風が強いので体感温度は5度ぐらい低く感じます。寒がりの私は考えられる温かグッヅを身にまとい、教室に臨みます。モコモコになって、ロボットのような動きしかできないほどです。一月の寒さは格別で、このひと月は、ホッカイロを背中やら下腹にやら貼り付けて武装します。

そんな一月最初の教室日は、集中学習日でスタートしました。通常の公文の教室と少しスタイルを変えて学習してもらっています。その目的は、脳の活性化と、意欲の引き出しです。普段、学習している、その子にとってちょうどの学習教材では無く、その子にとって簡単な教材を10枚20枚・・・と与えます。各自与えられたその教材をよーいドン、で始めてゆきます。

「準備している教材をやり終えたら宿題はありません。力の限りプリントに取り組んで下さい。顔はあげずプリントだけを見て、息も吸わず、出来るだけ全部のプリントを仕上げて帰って下さい。」と、声をかけて始まる、25分間。教室は、鉛筆が、再生紙で出来たプリントの上を走る音しかしなくなります。いつもは、三々五々やってくる人の出入り、採点に伴うプリントの受け渡し、指導者の私との面談などで、ざわざわしている教室が、30人もの人間がいるとは思えないくらい静かで、鉛筆の音と共に、時計の針の音が聞こえそうな感じなのです。(最近電波時計が公文の会社から支給されましたので・・・そんなことは無いんですが・・・)

白い机、白い壁に、黒い頭、 頭、 頭。その黒い頭から、白い湯気が立ってる。時間の経過と共に、鼓動が速くなり、呼吸が荒くなり、二酸化炭素の排出量が多くなり、教室の中はやたら暑くなる。一教科25分。三教科学習している子はこれを英語、数学、国語で三度繰り返し、一時間半後にあげた顔はタコの茹で上がった状態のようです。脳は25分間、数字を追い、言葉を追い、油をさした機械のように活き活きと動き出す。宿題をつくらまいと最後の最後の一秒まで粘るその姿は、オリンピックの選手のようだと思います。

おもしろい、おもしろすぎる。やる気がない、投げやりだ、粘りがない、ハングリー精神がない。子どもたちにつけられるこうした形容詞は、大人が追いこんだ子どもの姿だと、つくづく思うのです。私は教室でぬくぬく過ごすことが出来るし、子どもたちは喜んで帰ってくれるし、一石二鳥・・・でも集中学習の本当の目的は、脳に油をさす、脳の細胞を活き活きと、動かすところにあります。今年も、子どもを育てるプロとして、仕事を誠実にこなしていきたいと思います。どうぞ、よろしく。

Ⅰもし、私が、体に障害を持つようになったらどうするだろう?

突然、車椅子の生活になったと仮定して、仕事が続けられるだろうか?

歩道のない県道沿いのマンションの一階に、私のKUMONの教室はある。道路から50センチあまりあがった入口までに階段が2段。入り口のドアは外に向かっての観音開き。年長さんになってやっと自力で開けれだすような重い扉。教室に入ることもできない。段差つきのせまい和式トイレで、車いすは入れず、8時間の労働は無理か。階段、扉、車椅子の入れないトイレ・・・体に障害があるから、仕事が出来ないのではない。健常者にしか適応できない建物や道路、施設を作ってきたから、障害を持った人や体の機能の低下していく高齢者にとって住みにくい障害(バリアー)だらけの社会になっているのだ。バリアーだらけの環境だから、仕事が出来ないんだ。

公共の施設ではバリアーフリーが進んでいる。スロープや車いす用トイレが完備されている図書館やプール、コンサート会場、総合公園・・・確かにバリアフリーの施設は障害をもった人だけでなく、みんなに優しい。あったら、有難いものではあるのは間違いないけれど・・・

でもね、私なら、何が一番欲しいかって、人の手を借りず、一人で生活できる環境、つまり、何より仕事なんです。収入の道さえあれば、自分自身の生活環境を整えるなんてね、いくらでもできますもの。障害を障害と感じないで済むインフラが整っていれば、体の機能に欠損があったとしても、残る能力を活かして、社会に貢献しながら、収入を得て、自立した生活が出来るのに・・・生きがいのある人生が送れるのに・・・。   障害者手当なんていらないのに・・・と考えずにはいられない。

目に障害を持っている人が、日常生活に支障がないように眼鏡をかけている。眼鏡をかけている人を見て障害者だとは指差さない。眼鏡の有無が従業員の採用に大きく関係したりはしない。人物本位で雇用を考えるだろう。しかし、義足や車いすの人と健常者の人と比較対照し、採用する場合はどうだろう。私たちの人を見る目には、バリアーがかかってないだろうか?本当に人を公平に評価しているだろうか?

物理的なバリアーを取り除き、人の心のバリアーを取りはらう、バリアフリーの社会を真剣につくっていきましょうよ。われわれだって、やがて、障害をもつ存在になっていきます。障害があっても生きがいとなる仕事が出来る環境を一日でも早く実現したいな。私が老いる前に・・・

Ⅱ障害を持っている人、障害を持った人を支える家族の人に伝えたいことがあります。

「この子は知的障害を持っているから、算数や国語や英語のような科目学習は無理。服の脱着、挨拶など日常生活を優先的に教えていく。」と考えるのは間違いです。国語や算数の学習を毎日行って、脳に刺激を与えていくと、よだれが止まったり、、多動が少なくなったり、我慢ができるようになっていきます。学習を習慣化することによって、精神状態を一定に保つこともできます。知的学習をしていくことで、感情をコントロールしていけます。KUMONは知的障害を持っている人、脳卒中や脳梗塞による障害が発生した人、高齢や病気の為に認知症にかかっている人にこそ取り入れたい学習療法です。

私の母は透析しながらの自宅療養生活を4年余り続けておりました。一時的ではあるものの入院生活になると、うつ病と物忘れが始まります。そんな時には、KUMONの教材をさせていました。
数字を唱え、書き、足し算、引き算をおこなうことで、ぼんやりと、とりとめのないことを考えることが無くなり、プリントに向かっている時には、一時的に集中力が出てきます。文を読み、設問に答える国語のプリントをしている時には、忘れかけていた言葉を、前後の文から意味を推測し、獲得し直していくようでした。英文は聞いたり、発音したりするものですから、耳が音を鋭く捉えるようになり、発声が腹筋を鍛えていきます。
刺激が毎日、国語、数学、英語という形で続くと、昼寝もしないために、夜中に鬱々と考えることもなくなり、うつ病から脱け出ることができました。くよくよ考えることが少なくなると、ものを忘れるという不安から解放され、プリントが出来たという達成感が加わって自信がわいてきて、物忘れの危惧もなくなっていきました。ここまでくればしめたもので、散歩や入浴に積極的になり、体力が飛躍的に回復していきます。

英数国の抽象的な学習をすることで脳に刺激を与え、生活能力を上げていくことができます。障害があってもなくても、自分のもてる能力を日々開拓、開発、伸ばすことをやめてはならないのです。

退院した母は、ベッドから自力で立ち上がることができません。足の裏で全体重を支えることが出来ないからです。そのようなときには、全体重を腕や足に分散してくれる、すがりつくことのできる歩行器を利用して部屋で過ごします。トイレや食事、入浴の度に面倒でも移動を強いると足の筋力が戻ってきます。
足で、踏み立てるようになり、移動が壁伝いにできるようになったら、歩行器は外でのみ使うようにしていきました。歩行器に生ごみを乗せて、ごみ収集所まで持っていく、これが晩年の母の日々の目標でした。

脳を刺激しながら、生活能力を上げていく。一歩一歩進んでいく。出来ることを増やしていく。自分の目標とするノーマルと思える状態に近づけていく。
障害をもっていようと、健常者であろうと、この世に一時的に生を受け、死に向かっていく存在である人間が、退屈しないで、楽しく生きていく方法が、能力開発なのです。KUMON式のツールを使って能力開発を目に見える楽しいものにしていきたいと考えています。

横河原教室は、将来の夢を実現したり、就きたい職業をめざす、子どもにとっての学習の場であることはもちろんのこと、自分の能力を磨く生涯教育の学びの場でありたいものです。

*KUMON式のツールには、英数国の教材のほかに、英語の速読(speed reading system)教材や硬筆、毛筆、ペン習字等の書写教材があります。横河原教室では、これらを扱っておりますので、興味があれば、お尋ねください。

ケーくんが、10か月間、数学3A教材に取り組み、今月、終了テストに合格しました。2011年1月のブログで紹介したケーくんです。幼長さんらしく、すましてちょっとはにかんだ笑顔。幼児から子どもに成長したケー君の笑顔です。

しかしながら、この笑顔に到達するまでの10ヶ月間は、悪戦苦闘の日々でした。遅ればせながらやってきた反抗期と重なって、くもん いやいやのケーくん。じゃ プリントやるのを、やめるかと言っても、やめるのいやいや。プリントに取り掛かるまでの時間のかかること。途中でお話を始めたり、鼻くそほじったり,トイレに行ったり。周りの子にちょっかい出して、森口先生に何度怒られたことか。周りに迷惑をかけるようなら教室でお勉強はさせないと言われて、何度泣いたことか。200枚で構成されている3A教材を2000枚こなしてテストに挑戦するも、途中で集中力が切れて、いつも、制限時間をオーバーして不合格に。てんやわんやの10ヶ月。
                                                 

教材終了テストは10回挑戦しました。薄っぺらいテストがこんな厚さになってしまいました。

この10ヶ月の間に、ケー君は、一人で教室を訪れ、学習し、終われば教室から電話をかけて、保護者の方にお迎えに来てもらうことができるようになりました。難聴のハンデキャップはほとんど感じないで学校生活を迎えられそうです。

何より私が嬉しいのは、3A教材を終了したことによって、数学の世界に触れさせてやれたことです。小学校では、おはじきや棒を使って足し算や引き算を教えます。具体的なもので数や量を実感させます。KUMONでは +1であっても、具体的なものに置き換えて教えません。数の並びで+1をします。2+1、100+1、1000+1を同時に学びます。数さえつくることができれば、想像できないほど大きい数でも、+1ができるからです。おはじきや棒を使っての計算だけでは、将来、数学嫌いになってしまう可能性があります。xやy、虚数、無理数など、実体のない数を操作することが、数学だからです。ケー君は+1、+2、+3の計算を通じて、想像上の数字を操作することが出来るようになったのです。

KUMONは計算ばっかりっと、いう批判がありますが、高校数学の得意な子にしたいなら、KUMONのプリントをしておきましょう。続けていれば、必ず、高校数学のできる子に育ちます。

私は、ケー君が高校数学への最初の山を越えてくれた、そんなしみじみとした嬉しさに包まれて、ケー君に教材終了テスト合格の賞状を手渡しておりました。

ショップに入ると、どこからともなくスーッと歩み寄ってきて、「かわいいでしょう。今年の流行りですう。お似合いだと思いますう。御試着してみて下さいねえ。」
かわいい服が着れる年ではないし、流行りの服は敢えて着ない主義だし、何を持って私にお似合いだと言うんだ、私自身今もって自分に似合う服が解らなくて、さまよって手当たり次第チャレンジするけれど最後はユニクロのジーパンとTシャツに落ち着くみたいな状況にあるのに・・・。試着?できればとっくに、してるよ。明らかに腕が入らんじゃないか。入りそうなブラウス見つけて着てみれば、垂れた胸の谷間が見えてる.イタイナア。

靴を探すときはもっと悲惨でEが三つ並ばないと履けないのに、試着を勧められて足が半分入った試しがない。次々持ってこられる靴が10足並んでも、入る1足がないなんてザラ。店員さんに納得してもらって退却していただくなんてことは毎度のこと。だからほとんど洋服なんて、ショップで買ったことない。古着屋さんで見つけたレトロな服か友人や妹が飽きた服を譲ってもらって着ているかどちらかだ。

誰か私に「あなたはこういう雰囲気に見られるのが、一番お得ですよ。あなたの売りはこれだから、ここを強調して、お洋服はこう、話し方はこう。」っていってくれないかしら、って、いつだって思っている。でもそんなことを言ってくれる店員さんまだお目にかかったことがない。ショップに私が行ってみるのは、服を探しにではなく、そんな人を探しに行ってる。洋服を通じて、自分を分析してくれる人、自分を探してくれる人を探している。ショッピングはまさに自分探しの旅だ。しかし、数千円のブラウスを売るのに人間分析の手間をかけてくれる売り子さんなんていないから、結局自問自答を繰り返して、手ぶらで帰ってくる。
ショッピングに母娘の組み合わせが多いのは、その辺のやり取りを、店員さんとやり難いからだと、私は分析している。

これが着物を見るとなると様子が全く違う。
衣紋掛に掛けられた着物をぼんやりと眺めていると、畳を足袋で踏みしめる音が、きぬずれの音と重なって初老の女性がやってくる。顔は見ない。着物の袖から、ちらりと見える襦袢の色と生地を見る。着物との組み合わせがはっとするほど艶めかしかったら、少しここで暇を潰そうと瞬時に判断する。

「まあ、御顔がはっきり印象的だから、お優しい雰囲気のお着物がお似合いですし、周囲の景色ともしっくりなじんで違和感なく着られますし、御顔が返って個性的に映えますよ。」なんて言葉を懸けられたら、私の頭の中はもう、妄想が始まっている。

子どものときには両親に溺愛され、結婚してからは夫に守られ、子どもには優しいお母さんで、周囲とも穏やかに折り合い、自分を主張せず、周りに流されて、月のように他人に照らされて、暗闇をやさしく灯す、そんな女性に見えるかいなあ、この着物着たら・・・。
「わぁ、オカアサン、そんなスーツ着たらあかんわ。ただでさえ強そうなのにそんなパンツスーツ着たら、ゴジラやん。声なんて掛けられへんわぁ、恐ろしテ。」娘に言われて、朝、着替えを何度したことか。
ヤバそうな太い眉毛、身長が高くないのに肩幅ががっちりしているので、態度がでかく見える・・・らしい。声もでかいので、圧迫感があるらしい。そんな自分を変えたい。
違う自分に、なりたい自分になるために私は着物を着る。妄想を与えてくれた店員さんから着物を買うこともある。支払うお金が半端じゃないから、帯はどんなんが似合うか、帯揚げは何色がいいか店員さんのセンスを盗もうと必死で尋ね、私は必死でなりたい自分に近づこうと努力する。

着物を着る予定のある数日前から襦袢の襟をつけ直し、会う人や場所のことを考慮に入れながら、着物、帯、帯締めを選んで揃える。草履も選び玄関に出しておく。お出かけから帰ったら、襟をはずし、下着と共に洗濯をし、着物と襦袢は汚れを確かめ、風通しを一日して、晴れた日中畳んでしまう。こんな、非生産的な事に時間を潰す。この無駄な時間が、私の生活にブレーキをかけてくれる。伝統や文化なんて無駄な時間の堆積の上にしかできないものだと思うし、こんなこまごましたことをこなすことのできない人に生活や家を守り伝えることなんてできないと思っている。

横道にそれちゃったけれど、

つまり、私が言いたいのは・・・自分を、自分の生活を変えてくれる、あるいは、妄想をあたえてくれるものを、選択して、購入しましょう、ってこと。安物買いの銭失いになってはいけないし、妄想、言いかえれば夢を与えてくれないものに、大事なお金を出すのなんて絶対嫌だし、頼りがいのある、センスのいい店員さんでなければ、商品以外の情報、知識が手に入らない。店員さんから、知識情報を引き出し、商品と共に、手に入れましょう。商品代金以上のものが手に入れば、売った方も買った方も幸せになれます。着るのものだけでなく、お金を出して手に入るものは、全て、こうしたやり取りがあるのが理想だと思うんですよね。

着物の話に夢中になって、すっかり、忘れていたけれど、わたしは、KUMON式を売っている指導者です。
KUMONのプリントを売っているかと言うと、そうではなく、プリントをさせながら学習習慣と、自学自習能力を売ってます。サイズはS M Lあるわけではないので、その子にあったプリントのさせ方を試行錯誤せねばなりません。自信とやる気を起こさせながら、学習の楽しさと我慢した後の快感を体に覚えさせるのが、教室における指導者の仕事です。宿題をさせながら、学習習慣を出来るだけ早くつくように促します。他の習い事などと重なれば、必ずしも宿題をする必要はありません。一人ひとりの取り巻かれた環境の中で、工夫をすると学習習慣はついていきます。その工夫の仕方を、提案するのも指導者の仕事です。
プリントは自分一人で出来るように構成されていますから、好奇心のある子はどんどん一人で進めます。挑戦することに憶病な子は、自信をまずつけさせて、その後、独り立ちを促していきます。KUMONで学習する目的を保護者と共に明確に共有して、協力し合って子どもの学習の自立と生活の自立をサポートしながら、受験、就職の最終目標に向かって確実に歩んでいく場が教室です。

って、こんな気持ちでKUMONを売ってはいるんですが、お客様はどう思うか、買って後悔のないように、無料のおためしの期間を設けています。KUMONのプリントと共に、教室、売り子を体験してみて下さい。

私はちりめんのくぎ煮を下さった方に、息子さんを失った悲しみをどう乗り越えてこられたか、伺いたかった。、後悔や無力感にまとわりつかれ、「お母さん」という言葉を発しないストレスで押しつぶされそうになっていたから。
2011年8月19日12:54
Reこちらこそ
日増しに募る寂しさを、経験された貴女様を改めて尊敬いたします。森口

2011年8月19日16:15
皆同じです。
親と子の違いはあっても、家族を亡くした悲しみは、何ら変わりません。
私の場合、時の流れと共に、もはやこの世では会うことが出来ない現実を受け入れていったように思います。長男が逝って、17年。今でも青年を見かけると、息子と重なり、言い様のない悲しみに襲われます。
現実を受け入れるには、年月が必要だと感じています。
皆、多かれ少なかれ、同じような経験をして年を重ねていくのでしょう。
今はただ、お母様のご冥福をお祈りするばかりです。

「この世では会うことが出来ない現実」この言葉に私は随分癒され慰められ、助けられました。
そういえば、通夜の席に来てくれた叔母は、母にしきりに声をかけていました。「智ちゃん待っとってな。すぐいくけんね。もうそっちの方が楽しそうやし。お母ちゃんも、姉ちゃんもおるし。」
私たちの世界には有難いことに、あの世とこの世があるのだということに、今更ながら気付かされました。

2011年8月19日16:56
Re:皆同じです
50を過ぎた娘が、母を見送るのは当たり前のことですのに、ついつい貴女様に甘えてしまいました。
有難い慰みをいただきました。
お礼の言い様もございません。森口

2011年8月19日17:39
Re2:皆同じです
いえいえ、返って悲しみを倍増させてしまったようで・・・
申し訳ありません。
でも先生が、お母様を送ることができてよかったと思います。
お孫さんも立派に成長し、先生ご自身も、キャリアウーマンとしてバリバリお仕事をしておられる・・・
お母様は、どれ程安心しておられたことでしょう。
先生は、親孝行な娘さんですよ。

2011年8月19日19:09
Re:Re2:皆同じです
ありがとうございます。

母が逝くその時にどうして居てやれなかったのかと、そればかりを後悔しています。教室に戻った1時間余りの間に。
肺癌の痛みに耐えかねた母に試行錯誤の痛み止めを試していて、やっと、寝始めたところで教室に戻ったその間に。後悔してもしきれません。
聞いていただいて、ありがとうございます。森口

私が、体の中に溜まった澱の正体をはっきりつかむことができた瞬間でした。

2011年8月20日10:31
皆同じです。
おはようございます。昨日は返信できず、申し訳ありません。
先生にしてみれば、後悔されるのは当然だと思います。
でもお母様は、先生の仕事に対する姿勢を分かって下さっていたに違いありません。
何より、お母様ご自身が、先生をそのように育てられたのですから。
仕事をしていなくても、私の母ように、最期を看取れないこともありますから。
どうかご自分を責めないでください。

2011年8月20日21:52
Re:皆同じです
ありがとうございます。随分と貴女様に慰めていただきました。
あの世で母と再会した時に、よく頑張ったね、って褒めてもらえるように、仕事や家族のこと、残された父のこと、できる限りの力で背負っていきたいと思っています。
母は最期の最後までいろいろな事を私に教えてくれるもんだと、つくづく感心しています。
もしも、ちりめんを頂かなかったら、こんな気持ちの整理は出来なかったと思います。
メールのやり取りをさせていただいて、有難かったです。哀しみを乗り越えて人は優しくなれるのですね。感謝です。森口

2011年8月21日11:03
Re2:皆同じです。
おはようございます。こちらこそ、感じたままを長々とメールしてしまい、失礼しました。
家族を亡くした悲しみが、どれ程深いものなのか。
それはやはり、経験したものでないと分からないと思います。
きっとお母様は、先生の気持ちを察して、私を選ばれたのではないでしょうか。
何気なく過ごしている日常が、いかに有難いことであるか。
先生がメールを下さったことで、私も、自身の人生を考える機会を頂きました。
一度もお会いすることがなかったお母様ですが、私にまでこのような時間を与えて下さったのです。
心から感謝申し上げます。

49日がまだ過ぎてもないのに、お霊具膳や団子を欠かす日がある親不幸な娘ですが、母が好きだった花だけは、玄関と祭壇に欠かさず活けています。教室日、ちりめんの保護者の方が、母が大好きだった生花をもって来て下さいました。あの世とこの世、きっとどこかで何か大きな導きがあるのかもしれないと、白い菊の花を見て思いました。公文をやってて良かった、心の底から思った出来事でした。

長期休暇の折などに、帰省された保護者の方からお土産を頂くことがあります。その方の懐かしい家族が住むふるさとの香りが包装紙やナイロン袋から、たち登ってくるようで、とてもうれしくって、はしたなくも、いつも声を上げて喜んでしまいます。それは、私が三人姉妹の長女に生まれ、生家と屋根を並べて住んでいて、帰省するところを持たないからかもしれないと思ってみたりするのですが・・・

お盆明けの公文の教室で、「先生、これお土産。」って手渡してくれたのは、淡路のちりめんのくぎ煮でした。翌日、仕事の為乗り込んだの高速バスの中で、さっそくお礼のメールを送信しました。

8月19日(金) 10:35
おはようございます。
母も大好きでよく二人で昼ご飯に食べたちりめん、ありがとうございました。先月末に母が在宅介護5年で亡くなりました。
これからは、父と頂きます。凄く懐かしい感じがしました。不思議です。

母が亡くなって三週間。公文の教室に影響の無いように、前もっての配慮をしていたので、教室中の母の死でしたが、スタッフ以外には迷惑をかけずに済んだし、公言せずに済んでよかったと思っていたのに、なぜこんなメールを打ってしまったのか、自分でも不思議でした。母の死から私の中でずっと溜まっていった澱のようなものがコップからあふれ出たのかもしれません。

8月19日(金)11:11
Re:おはようございます

そうだったんですか。
お仕事を続けながらの介護、本当に大変でしたね。
でもお母様は、自宅で最期を迎えられ、喜んでおられると思います。
心から、御冥福をお祈りいたします。
ちりめんは、伊勢うどんを買いに行けなかったので選んだ品です。
ただ家族が好きだからという理由からだったのですが、先生のメールを読んで驚きました。
三重のお土産を何一つ買えずに帰ってきてしまい残念です。冬には、伊勢うどん、お持ちしますね。
ちりめんが、再び悲しみを誘ってしまったようで、申し訳ありません。

このメールをいただいて、バスの中で泣きじゃくってしまいました。母のお棺が閉じられるその時、もう声を上げては泣かないと心に決めていたのに・・・私って本当に弱い・・・こんな風だから、私は自分の立てた目標に到達できなかったんだ・・・情けない・・・
母の最後を自宅で看取る・・・この5年間ひたすらこの目標に向かってきたのに、それが出来なかった無力感に打ちのめされて、ただただ泣けてきました。

2006年母肺がんの為、右肺二分の一切除。母、2007年お正月から食事療法するも、腎不全悪化。ほとんど寝たきりで過ごす。長女の大学の合格発表が出るまでは、自宅で我慢するのだと頑なに入院を拒んでいた母だったが、3月8日発表を聞くや否や、入院、透析生活に。主治医から、がん再発のおそれもあって、一年後の命の保証はないと言われる。その時、私が立てた目標は、自宅で最期まで普通の生活を父と母にしてもらうこと、だった。母にはもちろん、半世紀母を頼り切って暮らしてきた父にも医師の言葉を伝えないことにした。
通院の必要のない、自宅でできる腹膜透析を選び、自宅での療養生活を始めて4年と3カ月。
出来るだけの思い出づくりと、当たり前の日常生活を積み重ねていきたいと思って、私は仕事をセーブすることもなく、やりくりしながら、日々を過ごしていった。その間、大学生の長女は大阪から、次女は神奈川から月一で帰省し、三女は私と共に、母の透析を手伝い、寝食を共にしてきた。それでも母には、ずいぶんさみしい思いをさせてきたように思う。
「お母さん今日は公文やからね。遅くなるよ。」と声をかける月曜日、木曜日。「えー、いややなあ。1日長いなあ。」ため息ともあきらめともつかない嘆息と共に何度この言葉を聞いたものか。
かなり体力も衰えて寝た日が多くなってきても、皆と旅行することになると不思議と元気になり、その時は上機嫌で過ごしていられた。大阪や神奈川まで車の中で透析しながら、行く道中で、「車の中で皆でいるときが一番安心できる。一人じゃないから、何が起こっても安心。誰かが透析してくれるから、楽ちん。」と、繰り返した。
普段は何も言わないけれど、日中透析の不安、退屈、寂しさを抱えながら過ごしているのか・・、と思いながら私は仕事を辞める気にも、セーブする気にも全くならなかった。死を待っているような気がするのと、日常を変えないことで、1年と言われた命がもっともっと伸びていきそうな気がして。
母の部屋の続き間に、私は二階から自分の鏡台を持ちこんだ。毎日何でもないのに母の傍で話すのも不自然だと考えて、髪を梳いたり、顔の手入れをしたり、時には美容体操なんてしながら、ベッドの母と夜、とりとめのないおしゃべりができるように。
今年の6月から夜中に数時間に及び血を吐くようになり、吐き気が朝方に収まり、結局昼間は寝ていることが多くなっていった。でも何日かに一度は楽な日もあり、車椅子で高島屋にお出かけなんてこともできていたので、朝夜、母の世話し日中は仕事という生活がまだできると考えていた。息が苦しいと訴える母は「酸素が欲しい」と言うので、7月に入ると早々、家じゅうを動けるように6メートルのチューブをつけ、酸素吸入をしながら日常生活を続けていった。その頃から、胸から全身に及ぶ痛みに襲われるようになっていき、我慢できない苦しみ方をするようになっていった。7月15日救急車で入院。心不全を治療してもらう一方、ターミナルケア専門の看護師さんの協力の下、自宅に連れて帰る準備を開始。強弱の痛みに対応できるポータブルタイプのモルヒネ注射を準備してもらったり、訪問看護の依頼をしたりして、いよいよ仕事を調整しながら母を自宅に連れて帰ろうとしていた、まっただ中の死だった。「もうどうでもいいけん帰る。」痛がりながら、絞る様に訴えかける母に「帰ろうや。どうせどこにいても痛いんやから。一緒に帰ろう。」と言いながら、連れ帰ってやれたのは、寝台車での帰宅だった。

そう、そういえば、お土産にいただいた真っ黒い醤油に浸かった伊勢うどんを食べていると母は、「ようそんな変なうどん食べるもんだ。よくよく、お父さんに似てうどん好きやなあ。」と,言っていたけれど、私のうどん好きは絶対母のせい。幼いころから街にお買い物に出かけたら必ず食べさせてくれたのが、松山の名物店ともいえる「ことり」のうどんでしたもの。

8月19日(金) 12:10
Re:おはようございます

ご丁寧な返信、返ってご迷惑をおかけしました。

後悔やら悔しさやら、無力感やら、次々浮かんでくる思い出やらで、化粧していた顔が涙でぐちゃぐちゃになってしまい、たった一行の文しか打てれませんでした。

8月19日(金)12:22
こちらこそ

お母様との思い出を大切に、これからも前向きでいらしてくださいね。

私と父が病室を離れた数十分後、突然脈が落ちて帰らぬ人となってしまった母。さよならとも、ありがとうとも、何一つも言ってあげられなかった。50年慈しんでもらって一言も声をかけてやれず、病室で逝かせてしまったことが、どう考えても取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、日を追うごとに無力感が罪悪感に変わっていく。
「お母さん、ご飯できたよ。」「お母さん、今日は必ずお風呂に入るのよ。」「お母さん、ホイ、歯ブラシ」一日何十回と呼びかけていた、オカアサンの5文字。28日を最後に呼び掛けることもなくなり,呼んでも返事が返ってくることは無くなった。この世で私は母と呼べる人を完全に失ってしまったのだという喪失感に打ちのめされていた。

一年に2回保護者懇談会を実施しています。教室に通ってくれている生徒の保護者との懇談です。30分から1時間、長い時には2時間に及ぶときがあります。

KUMONは週2回の教室での学習だけでなく、家庭でも毎日学習プリントに取り組むわけですから、家庭が学習環境として整っている必要があるのです。親は、子どもを、規則正しく学習に取り組ませたり、励まし、やる気にさせたり、時には慰め、時には休息を取らせたりして、社会で必要とされる大人に育てなければならないのです。ですから、親のプレッシャーやストレスはかなりきついのです。子どもの居・食・住の生活を整え、学校に送り出し、自宅学習を促し、なんて、口で言うのは簡単だけれど、これがなかなか大変なのです。
「KUMONのプリントしたの?」
「・・・・」
「早くしなさい」
「あとで」
「今しなさい。すぐ終わるでしょ。」
「・・・・。このテレビ見終わったら・・・」
プリントにおもむろに取り組んだら取り組んだで
「わからん。こんなんめんどうくさい。」
やる気なさげにプリントの挿絵を塗りつぶしている。
わが子のこんな姿を見れば、家事に、仕事に、子どもの世話に、夫の世話、時折かかってくる親の世話にふりまわされて、必死になって戦っている母親は、情けなくなってくる。
「いやなら、やめなさい。もうせんでいい。」いつものお決まりの捨て台詞。母子間に漂ういやーな雰囲気。これに父親や祖父母の仲裁が入ると事態はさらに険悪に。
最悪の場合、夫婦げんかや、嫁姑の言い争いに発展するケースもあります。

懇談で私ができることは、子育て真っ最中の保護者の話を聞くこと。子どもの話はもちろんのこと、本人、家族の話を聞くこと。現在の状況を伺うこと。状況を拝聴しな 
がら、不安や不満の原因を探り、それを取り除くこと・・・そんなことできるんですか?って言われそうですが、・・・できます。

不安、不満の原因を見つけ、不安を感じないように、不満を感じないようにするのです。忘れるのです。忘れられなくても、忘れようと努力するのです。
なんで?
損するから。
不安や不満はよくない状況しか生まないから。損すると解っている馬券を、人は買わない。
得することしか、考えない。
安心、満足のオーラ漂う言葉をかけて、子どもや夫、祖父母をコントロールしていく方法を、見つけましょう。
「テレビ見てんのー。KUMONのプリント終わったりしていたりして。親を喜ばす方法知ってんじゃん。」
「プリント、まだしてない。」
「ぎゃー。喜んで損した。・・・そんなことないか。これからプリントが終わったら、もう一回悦べるわ。2回喜ばしてくれる、グリコのキャラメルのような子どもを持って、無茶苦茶うれしい。一粒で二度おいしい。」そんな古いギャグは通じないけれど、KUMONのプリントで喧嘩はしなくて済む。

コーヒーが飲みたくなったら、家族の居るところで「コーヒーが飲みたいなあ。パパに淹れてもらうコーヒーが一番おいしい。私は世界一の幸せ者だ。」て、叫ぶことにしています。

KUMON式は学習のスキルを身につける学習システムです。できれば、子育てのスキル、時には発展して人間関係のスキルを懇談で提供したいと考えています。

5月、6月のKUMONの教室を回していくのは、く・・・苦しい。
紫外線のきつい、夏を思わせるような暑い日、教室に汗をかきながら入って来る子が、机に座るなり、「せんせ―、暑い。クーラーいれてや。」
頭の中を覗くと、頭髪に、玉のしずくをたたえている。暑いんだろう。湿った体操服からは、むっと汗のにおいがする。こちとら、やっと寒さから、解放されて、さわやかな季節になったと窓からの東風を楽しみながら、教室をしている所に、ギリギリまで遊んでいて、そろそろKUMONに行かなきゃ、やばいと、チャリで必死で駆けつけた子が、遊び疲れて勉強を始める。始めるやいなや、「せんせー、暑い。せんせー、わからん。」暗くなるのが遅いこともあって、初夏の日差しは、事の他、子どもたちの体力を奪っている。学校の帰りに、やってくる子たちも、日に晒された時間割を過ごした子たちは、とっても疲れている。「せんせ―、なんか頭が痛い。」

「そっかー。暑いか。暑いよな。 大丈夫。プリントしてたら、忘れられるよ。」 とか 「頭痛いのか、そりゃ大変。プリントさっさとして早く帰ろう。帰って、お熱 計って、早く寝よう。終わったら、おうちの人に迎えに来てもらってお医者さんに診てもらいに行こう。」とか 答えにもなってないことを私は言いながら、教室の学習を何とか終わらせると、何事もなかったかのように帰っていこうとするから、「頭は?」って聞くと  「あっ。治っとる。」って。

雨の日は雨の日で、学習を終えて帰ろうとする子が「せんせー、僕のみどりの傘がどこにもない。」  わっ、またかよ。 と思いながら、手当たりしだい、生徒の家に電話をかける。「傘を確認して頂けませんか?」
靴の履き間違えの場合は、年恰好にあたりをつけて電話をするのですが、双方の保護者の御足労を願わなければなりません。その間、靴の無い子は、じっと教室で待たねばなりません。夜も更けてきたし、おなかもすいただろう、にと思うと、不憫に思うのですが、私自身は、電話を必死でかけまくり、犯人捜しで狂乱しているのです。
先日の教室なんて 傘捜しと靴探しが両方あって、てんやわんやでした。
これに時々、お漏らしがあったりするのです。トイレに入る直前についに耐えきれなくなって・・・おしっこの始末をして、タオルで体を巻いて、保護者に電話してパンツやズボン持参でお迎えをお願いします。

KUMONの先生である私は、毎日の宿題を子どもたちに課します。人によって多寡はありますが、宿題という負荷をかけます。宿題を仕上げて来る子もいるし、できなかった子もいます。皆、宿題をせねばならないと思って持って帰っています。この負荷に耐えられることが大事な生きていく力なんです。
与えられた宿題をするために生活を工夫して、時間を作り、実力を養っていく子。こんな子は、一つ一つの人生の困難な問題を克服する力が日々養われていきます。
一方、教室では何とか学習ができるのだけれど、持って帰った宿題はできたり、できなかったり。こんな子ほど宿題をした方がいいことはわかっていて、でも楽な事に流されて、ついついできなかった・・・というわけで、すべきことがきちんと把握されているのです。した方がいいことが分かっている子は、いつか必ず、伸びていきます。成長する力を持っているから。持って帰った宿題プリントを隠したり、でたらめにしたり・・・こんな子は正に生きる力の塊なのです。しなくてはいけないと思いながら、でも、面倒、しんどい。そこで、考えだされた善後策が隠す、でたらめなのです。彼らは宿題という負荷からは逃げずにいるのです。この負荷に耐えている状況下にいることは、すなわち、社会の中で,様々な我慢が出来る、ことなのです。時間を守ったり、命令に従ったりの。

5月病という言葉があるように、今ある状況に耐えきれなくなって、うつ病になる人が、この時期そして最近では、とても多いのです。他人から見たら何不自由ない、むしろ、人が羨む様な状況の人がうつ病になる場合もあります。忙しさやストレス等、こうしたものに負けずに、その状況下に耐えられる力が必要なのです。忙しさやストレスなどは一時的なものなので、その時耐えられたら、後は時間や状況が問題を解決してくれます。
巣立っていった卒業生がうつ病になってないのは、長い間毎日の宿題の負荷に耐えてきて、その上、週2日の森口先生の圧迫にさらされて、しっかり生きる力、自ら身を守る力が養われているからだ・・・なんて、思っています。

だから、まるで家庭の母親のようにバタバタといろんな雑用に追われているのか・・・KUMONの先生って。

自分の文章が無性に書きたくなったけれども、添削に追われて、時間が無い。「時間がない」という言葉、自分の無能ぶりや、やる気の無さを露呈しているみたいで嫌なのね。すっごく嫌なのですが、私は言いたい。
ゴールデンウイ―ク明けから、毎日12時間朝の9時から夜の9時まで、公務員専門学校の授業やら、KUMONの教室やら、西条の書写教室やら、その準備やらで、人中で仕事して、帰宅後、今日までに800字80枚、1200字70枚の添削をしたのです。<公務員試験の論文対策用なのですが。>帰宅後お風呂に入って、添削に取り掛かるまでに、2時間かかる。だから、いつも寝るのが、2時、3時。こんなことだから、睡眠時間2,3時間の日々が続いていたのです。
それもこれも、母の日に、吉本の美容芸人シルクさんの、美容本を子どもからもらったから。1日10分って書いてあるので、する気になって、顔やら、体やらケアしてると、毎日最低1時間半かかる。うーん。て、うなっているころ、夫が、「35歳のシルク姉さんの顔が載ってるよ。」と、シルク姉さんが手掛けた最初の美容本を買ってきた。その写真をみたら、「こんなに変われるのか」と、嘆息して、その後は、俄然ケアせずにはいられなくなって、読みながらするので、これまた時間がかかる。で、仕事に取り掛かるまでに、2時間。はー。
6月中旬までに、やっぱり150枚ほどの添削が控えています。上手に時間のやりくりができる、綺麗なねえさんと呼ばれるようになりたい。

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